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原始仏教ガール’s日記

気づけばすっかり仏教徒。 twitter @music_buddha

心に響く「無常の教え」/アーチャン・チャー著(星飛雄馬さん訳)

先日アーチャン・チャーさんの法話が掲載されているWebページをご紹介いただいて「まさに自分のことのよう・・・」と心を揺さぶられたのですが(詳しくはこちら)、その後調べてみたところ、日本語の本が何冊か出版されていることがわかったので、この本を読んでみました。「無常の教え」です。

アーチャン・チャーさんは20世紀のタイにおけるテーラワーダ仏教を代表する僧侶の一人。1954年にタイの森の中に小さなワット・パー・ポンという僧院を設立すると、その卓越した指導力で瞬く間にワット・パー・ポンはタイ有数の森林僧院となったそうです。外国から修行にくる人も多く、アメリカでインサイト・メディテーション・ソサエティを設立したジャック・コーンフィールドさんなどもここのお寺で修行をされたお弟子さんだそう。そんなこともこの本で初めて知りました。

 

心に響いた5つポイント

この本は日本語訳が美しくさらさら読めてしまうのですが、自分の無意識の感情や無知な部分をストレートに言い当てられ身悶えてしまう感じが、ほかの本では味わえない読後感でした。中でも自分の気持ちに響いたのが次の5つです。以下、本文からの抜粋です。

 

1つめ、「常ならず」について

  • あらゆるものが当てにならないと観察することによって、私たちはあらゆる欠如や満足の状況を常ならずとして受けとり、それらに愛着を持たないようになります。 
  • アーチャン・チャーは、繰り返し「常ならず」について語りました。そして、彼はまた自身の僧院生活が、存在の真理を映すものであるよう気をつけていました。弟子たちは日々の決まりごと、期待、所有物、さらには師であるアーチャン・チャーにさえ執着せずに日々を過ごすことを彼から学びました。

「常ならず」を修行するための僧院。だから僧院の生活そのものが「常ならず」を実践する場であるようアーチャン・チャーさんは努めていたと。正しいやりかたですがそこで修行する人たちにとってはさぞ過酷だったことと思われます。「この人のもとで修行したい!」と思って自らお寺に来たにも関わらず、師にさえも執着しないよう求められる。師のつれない対応に「裏切られた」と憤慨したり「心ない人だ」とがっかりしたりして去る人も多かったことでしょう。と同時に、自分自身「過酷だったことでしょう」などと思う時点で、「常ならず」に逆いたい欲求があるのだということに気づかされてドキッとしました。

 

2つめ、因縁について

  • 私たちは今すぐ、ダンマ(dhamma・法)を見据えるべきです。今この瞬間こそが私たちが現象を手放すことができる場所であり、私たちの困難を解決する場所です。なぜなら、この瞬間は原因と結果の双方を含むものだからです。今この瞬間は過去の結果であり、それはまた未来の原因でもあるのです。私たちがまさに今ここにこうして座っていることも、過去においてしてきたことの結果です。そして、私たちが今行っていることは未来において私たちが経験することの原因となるのです。

今が未来の原因になり、今は過去の結果であるということをすぐに忘れ、無意識・無自覚に生きてしまう自分としては、今この瞬間が「原因と結果の双方を含む一点」であることを、きちんと認識せねばと思いました。

 

3つめ、涅槃について

  • 在家の仏教徒たちがこの寺に来て、お布施をするとき、彼らは「未来おいて、いつの日か私たちはニッバーナ(涅槃)に達しますように」と唱えます。「いつ、どこで」ニッバーナに達するのかということは、彼らは実際には知りません。遠い未来でのことです。彼らは「今、ここで」とは言わず、「未来のいつか」と言うのです。常に「いつか、どこかで」の話です。決して、「今、ここ」ではありません。常に「いつか」です。来世においてもまた、「いつか」と言うのでしょう。そして、その先の未来においても「いつか」なのです。ですから、彼らは決してニッバーナに到達することはありません。なぜなら、それは常に「いつか」だからです。 
  • 私たちは決して「今、ここ」とは言いません。なぜそう言わないのかというと、私たちはまだ現象に夢中になっているからです。私たちはまだ世俗の物事を楽しみ、思い切ってそれを諦めることをしません。ですから、私たちは「未来のいつか」というままにしておくことを好むののです。

自分も在家の仏教徒として「出家もしていないし、今すぐ解脱というのは無理でしょう、でもいつか解脱できたらいいな、がんばろう!」と思っていました。でもそんな考えではいつまでたっても解脱できない、ということがわかったのと、「いつか解脱できたらいいな」の裏には「今はまだ絶対に解脱したくない!」という強い気持ちがあるのだと指摘されたのは衝撃でした。

 

4つめ、混乱した修行者へのアドバイス

  • あなたは、彼らが教えていることが正しいかどうか、それらの教えを互いに比較するため、ある師から、別の師へと、説明や指導を求めて歩くことができます。一部の人々は、様々な指導者から学ぶため、常に遊行をしてまわっています。彼らは、いつも瞑想指導者の力量を審査してまわっているため、実際に瞑想しようとすると、何が正しく、何が間違っているのかについて、かえって混乱してしまうのです。
  • 瞑想法には、たいへん多くの種類があります。それはあたかも、私たちが暮らす世間で、生活費を得る方法にたくさんの種類があるようなものです。私たちが行うダンマの実践と呼ぶものも、それと同じことです。そしてそれは、私たちを手放すことへ、執着を断ち寂滅へと導くものでなければならないのです。 

これは前回Webで読んだのと似た内容ですが、やっぱり心にずしんときました。

 

5つめ、仏教を学び仏教徒として生きることについて

  • 今日のタイでは、若い人々がダンマへの関心を持ち続けることは難しいでしょう。彼らも、僧院に来る機会はあるかもしれません。けれども、そうするとすぐに彼らの友人が、彼をからかい始めるのです。「よう! ダンマ・ダモ!(仏教オタク!) 何やってるんだい? 抹香臭いな」といった調子です。僧院に通い始めるような若者は、世俗の価値観の中には、喜びを見出だせなくなっています。そんな彼らの姿を見て、かつての仲間たちは言うのです。「お前、寺に通うようになってから、俺らと一緒に酒を飲みに行かなくなったよな? 一体、どうしちまったんだい?」こうして干渉されることによって、いったんはダンマに関心を持った若者も、僧院から足が遠のいてしまうのです。 

自分自身、今の生活の中で「わたしは仏教徒。毎日瞑想しているの」と言えない空気感がありますが、テーラワーダ仏教国のタイでもそうだとは驚きです。

 

タイプ的に、はっきりストレートに言われるのが好きな人に特にオススメの本かなと思いました。いちど読むだけではもったいない「無常の教え」。近くに置いて、今後も読みかえしつつ、アーチャン・チャーさん著のもう一冊の本、「手放す生き方」も今度読んでみようと思っています。