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原始仏教ガール’s日記

気づけばすっかり仏教徒。 twitter @music_buddha

明日死ぬ確率は何パーセント? / 大森荘蔵さん「流れとよどみ -哲学断章」

とりとめのない話 哲学

大森荘蔵さんの本「流れとよどみ」を読みました。

 

男について語るには女について語ればいいと言った人がいる。たしかに悪を語ることは善を語ることだし、狂気について語るのはまた正気について語ることだろう。そして何よりも死について語ることは生について語る事以外のものではない。

という印象的な書き出しで始まるこの本ですが、第二章の「確率と人生」がおもしろかったので、ピックアップしてご紹介します。

  • 私が今コインを投げようとする。そのとき裏がでるか表がでるかは半々だ(1/2の確率だ)、ということは何を意味しているのだろうか。ここで大切なのは、今問題にしているのはこれから投げるというただ一回きりの事件についてである、ということである。
  • そこで投げてみる。表が出た。そのことで裏表のチャンスは半々だと言ったことが当たったことになるだろうか。もちろんなるまい。このとき、裏の出るチャンスは9/10だと言ったとして同様である。それはなお表が出る可能性もある、と言っているのだから。
  • 要するに、一回きりの事件では、前もってその確率を云々しても、その予言のあたり外れを言うことは意味をなさないのである。確率いくらいくらということが正しかったか誤っていたかを定める方法がないからである。
  • では一回きりの個別的事件の確率を云々することは何を意味しているだろう。それは無意味であるはずはない。とにかくわれわれは「明日は多分雨だろう」ということに十分な意味を感じているのだから。
  • 私はそれは単なる予測の命題ではなく、自分が生きる上での心構えの表現であると思う。雨かもしれない、という覚悟をしながら晴れだとして生きることに賭けるという心構えの表現だと。
  • われわれ今日生きている人間はともかく今日まで生きて来れるだけの賭けに成功した人間である。適者生存の生き残りなのである。だが明日は? それは明日になってみなければわからない。

 

明日も死ぬか生きるかのどちらか

日ごろ自分が思っていることを重ね合わせながら読みました。わたしは小学生のころから「明日死ぬかも」と思って生きています。生きている人間にとって「いつか死ぬ」こと、そして「死ぬのがいつかわからない」ことは確実なこと。だから死は今日かもしれないし明日かもしれません。

 

一方、仲のよい友人は「明日も間違いなく生きているでしょう!」と、とても楽観的に生きているタイプ。「明日死ぬかも、なんて思ってたら苦しくないの?」とわたしに問います。

 

現時点では「明日になったら100%死ぬ」と決まっているのではなく「明日死ぬ確率は0%ではない」だけ(感覚的には5%ぐらい)ですから、苦しくはありません。5%ぐらいの確率で、もしかしたら車の事故にあったり誰かに不意に刺されたりして死ぬかもしれないな、と思っている感じです。

 

副作用

しかし5%といえど「明日死ぬかも」という意識がありますから、例えば「約束の日まであと1週間! もうすぐだね」と言われたときに、「うーん、もうすぐって言われても、明日死ぬかもしれないのだから、永遠に約束の日は来ないかもしれないし・・・」と思ったり、「便りのないのはよい便り」の反対で、便りがなければ「死んじゃったのかな」なんてことを思ったりしてしまいます。

 

一瞬たりとも賭けに負けてないから今生きてる

そうは言っても、今まで生きてこられたということは、生きるか死ぬか両方の可能性がある毎日の中で、「生きてる」、「生きてる」、「生きてる」、「生きてる!」、、、と「生きてる」だけを一瞬も間違わずに積み重ねてこられた成果。我ながらすごいことだなあと思います。よくここまで事故にも遭わず、殺されもせず生きてこられたものです。

 

これから先もいつ死ぬかまったくわからないわけですが、あと数十年の間に死ぬことは確実。死のカードをどこできるか、きられるか。呼吸を1回するたびに、だんだん「生きる」確率が下がって「死」の確率が上がってゆくのですから、死ぬまでにできるだけ、だれかの(なにかの)役に立つことをしていきたいと思うのでした。