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原始仏教ガール’s日記

気づけばすっかり仏教徒。 twitter @music_buddha

中島義道さんの「エゴイスト入門」

とりとめのない話 哲学

今日の通勤のお供は、中島義道さんの「エゴイスト入門」。

中島義道さんは哲学者。自分の「快・不快」に忠実に生きていて、自分の感覚を言葉で正確に語っています。「世間がどう思うか」には一切興味がなく(むしろ敵意を持っている)「なあなあ」で済ますということが、まったくありません。

 

内容は、仏教と似ているところも(そうでないところも)ありました。

  • 哲学者は、みずから真理であると信ずることを、常識や因習や権威に屈服することなく、そのまま語らねばならないということだ。それが、哲学者を哲学者たらしめる定義的特徴である。だが、この要請はなんと過酷なことであろうか。

真理の追究について。ブッダが説法をし始めたころは、まさにこんな感じだったのかなと思いました。

 

次は因縁について。

  • 因果関係とは、わかったようでわからない概念であるが、思い切り簡単に言いきってしまえば、「見えるもの」によって「引き起こされた」と説明することなのだ。
  • 現代日本では、原因としての「見えないもの」として魔力や、神の怒りや、悪霊や、もののけの仕業は(なぜか)切り捨てられている。そうすると、残るものは、わずかとなる。原因として的確であると認められているものの一つは、広く「心」と呼ばれるものである。
  • われわれが原因を探求するのは、起こった禍を納得したいからであり、これから禍が起こることを食い止めたいからである。飢饉の、交通事故の、火災の、犯罪の原因を突き止めて、その見えない原因を除去すれば、これらの禍は防げるであろう、そう願うからである。

自分のかかわっている仕事でも、出版物が売れなくなった原因を、読者アンケートで執拗に聞き出そうとします。出版物の販促が大々的に始まる前には、みんなで神社に願掛けに行く習慣があるのですが、売れなかったときに「神様の怒りだ!」などとは総括しません。なぜなんでしょう!?

 

次は学問と悪趣味について。

  • この前、あるパーティの席で、「先生、哲学の塾を開いているそうですねえ。おもしろそうだから、ちょっと覗いていいですか?」と初老の紳士に聞かれ、「あなたのような人は来ないでください」と答えた。こういう質問は多い。彼らは、哲学をちょっとした人生の飾り程度に思っているのである。私は、哲学を趣味と勘違いしている人が嫌いなのだ。趣味なら、もっと面白そうなものがあるではないか。趣味にしてはずいぶん悪趣味である。

わたしが「初期仏教を勉強したい」と言うと反対する人というのは、もしかしてこんな心理だったりするのかなとも思いました。

 

  • 思想家や評論家の言説がいかに立派であろうと、彼(女)が「いま・ここ」で生じていることに対して投げやりで杜撰な応対しかできなければ、信用するに足らない。

最後に仏教っぽい「いま・ここ」思想。これは同意!

 

本はここに書いた内容よりももっと豊かなので(あたりまえ・・・)、中島義道ファンのかたもそうでないかたも、お暇なときにどうぞ!