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原始仏教ガール’s日記

気づけばすっかり仏教徒。 twitter @music_buddha

比丘尼はキャアキャア騒ぐからサウナ禁止/佐々木閑「出家とは何か」(大蔵出版)

佐々木閑先生の「出家とは何か」がおもしろすぎました。

お釈迦様の時代およびそれに続く数百年間におけるインド仏教僧団の現実の生活状況が具体的に描写されている本です。全部おもしろかったのですが、特におもしろかった3つのポイントをご紹介します。
 

ポイントその1:健康維持のための、僧団の施設

お釈迦様は比丘の健康維持をとても大事にしていたようです。

  • 「チャンカマ」「チャンカマサーラー」とは、出家者が静かに歩行するいわゆる経行(きょうぎょう、きんひん)のための施設。手すりのついた回廊あるいは広場になっていたと思われる。チャンカマサーラーは特に屋根や壁の備わった屋舎として造られた経行場のこと。経行は運動不足で比丘が体調を壊さないよう、健康のためにシャカムニによって制定されたとされている。

経行(歩く瞑想)が「健康のためにお釈迦様によって制定された」のだとはこの本を読んで初めて知りました。座る瞑想をずーっとしていた比丘の筋肉がすさまじく衰えていてお釈迦様はハッとしたのでしょうか。経行自体もそれほど筋肉を使っているようには見えないので、効果はあったのかしら・・・ともちょっと思いますが、座る瞑想だけしているよりは、はるかに運動不足の解消になるのでしょうね。

 

もうひとつ健康維持の施設として「かま風呂」という名のサウナ。

  • 「ジャンターガラ」はかま風呂のこと。仏教の出家者は水浴によって身を清める。一方これとは別に健康のためにかま風呂の利用が認められている。先の経行と同じく、出家者の健康を配慮してシャカムニによって許可されたものである。壁を塗り固めた室をつくり、中に燃焼釜と煙突を設置してここで火を燃やす。床には煉瓦や石を敷き、そこに腰掛けを置く。利用者は熱気を避けるために顔に泥を塗り、体に水をかけながら熱せられた室の中で体を暖める。そして最後に水で泥や汗を落としてから出るのである。かま風呂では通常の挨拶や飲食は禁じられている。

とても気持ちよさそうです。泥を塗って水をかけながら煉瓦作りのサウナに入るなんて、肌にもよさそう。これは確かに健康のためになると思いました。どんなサウナだったのか、実際に体験したかったです。

しかし、

  • なお比丘尼はかま風呂の使用が禁じられていた。理由は中でキャアキャア騒ぐからである。

とのこと。がーん。女子はダメだったんですね。確かにこんな気もちのよさそうなサウナに女子が集団で入ったら、キャアキャア騒ぎそうです。世間話で盛り上がったりとか。でもうるさいだけなら禁止までせずとも「1人ずつ入ること」という規則にすればよかったのに・・・。

 

ポイントその2:僧団と一般社会の関係

くしゃみをしたときの風習について。

  • くしゃみをした時、まわりの人が吉祥あるいは魔除けの文句を唱えるという風習は世界各地にみられる。インドにも同様の習慣があり、人がくしゃみをしたら周りの者は「寿あれかし」ち叫び、くしゃみをした者はそれに対して「長寿したまえ」と応答するのが通例であった。あるときシャカムニが説法の途中でくしゃみをしたところ周りの比丘達がくちぐちに「寿あれかし」「寿あれかし」と叫んだために説法が中断してしまった。困ったシャカムニは「人がくしゃみをしても『寿あれかし』などと言うな。言ったものは規則違反とする」。ところが他日、比丘達が在家の人々と一緒にいた時、比丘がくしゃみをしたため周りの在家者は普段の習慣で「寿あれかし」と叫んだ。しかし比丘はシャカムニの教えを守って何も応えなかった。これを礼儀知らずと思った在家者はこの比丘を非難する。このことを聞いたシャカムニは先の規則に例外規定を設ける。「比丘達よ、在家の人は吉祥事を好むものだ。もし在家人が『寿あれかし』と叫んだらその時は『長寿したまえ』と応えるようにしなさい」と命じたのである。仏教としては意味のない俗習であっても一般社会との軋轢を避けるという目的があるなら従うことを認めるのである。この話は仏教僧団の基本姿勢を端的に示している。

修行として意味ないことも、社会との軋轢を避けるためにならやるなんて、すてき。仏教僧団の柔軟な姿勢がよくわかりました。

 

ポイント3:仏教僧団と女性

  • シャカムニ「もし女性が出家しなければ正法は一千年以上続くはずであったが、女性が出家することになったのでそれは五百年に縮まってしまった。」 これが比丘尼の誕生を語る伝説である。歴史的な事実であるかどうかは分からない。しかしここには、男性主体で運営されていた仏教僧団が、新たな参入者である女性修行者を扱う際の姿勢が明確に現れている。一言で言えば邪魔なのである。
  • せっかく世俗の欲望世界を脱出して独自の修行の場を確保したと思った矢先に、欲望の対象としての極め付きである女性がなだれ込んできた。比丘達は「来るな来るな、あっちへ行ってくれ」と言って顔をしかめているのである。
  • 受け入れた以上はその処遇を明確にしておかねばならない。もともと男性だけのコミュニティーとして出発し、それに応じて組織運営を行っていた仏教僧団が新参者として女性修行者を受け入れることになり、多岐にわたる組織変更を迫られた。 

せっかく俗世の欲望を脱出したのに欲望の対象である女子がなだれこんできて大迷惑。しかもわざわざそのために修行する時間を削って組織を編成し直したりなどするのは確かに厄介そう! ちょっと同情しちゃいます。

厄介だとは思ったみたいですが、女性差別とは違ったみたい。

  • 女性と男性の間に悟りの可能性という点で差別はない。女性でも男性でも等しく阿羅漢になることはできる。
  • 女性も男性と同等に悟りの資質を持っているという前提は仏教のすぐれた特質である。女性がもともと男性と違う何らかの劣悪な要素を持っていると前提するなら、そこからは女性を汚れた存在とみなす思考や、その汚れた存在である女性の立ち入りを拒否するいわゆる「女人禁制」の思考などが生じてくる。しかし初期仏教はそういう前提を設けない。

 

仏教が女性蔑視になったのは大乗仏教の時代からなんですね。

  • 大乗は、阿羅漢ではなく仏になるという。これは今までなかった新しい悟りのコースである。女性でも仏になれるのか。これはそれまで誰も問題にしなかった新たな論点となる。ここで一般社会の通念が入り込んでくる隙ができる。そして「女性は資質が劣っているため仏になれない」という教義が現れてくるのである。
  • 初期仏教から大乗仏教へと仏教が大きく変容する時期に、悟りへの道という最も革新的な部分に女性差別が流入したという事実である。大乗思想の発生以来二千年、この問題はいまだに解決されていない。

 

3800円(+消費税)というちょっと高い本だったのですが、充実の内容で、本当におもしろかった。オススメです。2500年前から人の思うこととか、厄介ごととかってずっと変わっていなくて、共感できることもたくさんでした。

 

そのあと続けて読んだ「犀の角たち」もおもしろかったです。これも佐々木閑先生の本です。おすすめです!